LOGIN残り六週間になった。
フィオナが予告していた「最後の山」が来たのは、その週だった。 朝、速達の手紙が届いた。封蝋が、いつもより深く押されていた。エリナへ
来た。 クロヴェル侯爵が、国王陛下に直接上奏した。内容は「アッシュフォード商会の活動が、魔法師の権威を損ない、王国の秩序を乱している。一年の任を終了させ、以後の活動を制限すべきだ」というもの。 上奏は公式な手続きだ。陛下は受け取らないわけにはいかない。 陛下の反応は、今のところ「慎重に検討する」という返答のみ。これは賛成でも反対でもない。でも、時間を稼いでいると思っていい。 問題は、この上奏が公式になったことで、宮廷内の空気が変わりつつあること。「やはりクロヴェルが動いたか」という空気と、「陛下はどう判断するのか」という緊張が、同時に流れている。 アルバ殿下は「動く」と言った。何をするかは、まだ教えてもらっていない。 こちらでできることを、全部やる。 一つだけ聞く。エリナ、今どういう状態ですか? ――フィオナ――エリナは手紙を読み終えて、机の前に座ったまま、少しだけ目を閉じた。
来た。 想定はしていた。 上奏、というのは、クロヴェルにとって最後に近い手だ。これより強い手は、陛下への直接的な脅しになる。それは、さすがにできない。 だから、これが最後の山だ。 目を開けた。 今どういう状態ですか、とフィオナが聞いた。 エリナは、正直に考えた。 怖い。 でも、一人で怖いのとは違う。 それは、前に同じことを思った。でも、今はさらにもう一つある。 怖いが、やることは見えている。 その違いが、大きかった。ゴードンを呼んだ。
マリオも呼んだ。 ルナは自分から来た。 四人で、事務室に集まった。 「状況を共有します」 エリナはフィオナの手紙を読み上げた。 マリオが少し顎を引いた。 「公式に上奏したのか」 「そうです」 「それって、かなり本気ってこと?」 「本気です。でも、逆に言えば、本気にならなければならない状況になったということでもある」 「どういう意味だ?」 「クロヴェルが最後の手に近いものを使ってきたということは、それまでの手が効かなかったということです。流通を止めても、商品規制を試みても、品質基準で締めようとしても、全部に対処できた。だから、上奏という手段に移行した」 「そう考えると、俺たちが追い詰めてるんだな」マリオが少し笑った。
「追い詰められているのは、どちらかはまだわかりません。でも、こちらが動けていることは確かです」 「で、今から何をする?」ゴードンが静かに聞いた。
「四つあります。一つ目、最終報告の骨格を今週中に完成させる。二つ目、学院の確認書を急いでもらう。三つ目、フィオナに宮廷の空気を細かく拾い続けてもらう。四つ目——」 エリナは少し間を置いた。 「四つ目は、ダリウスに連絡を取る」ゴードンとマリオが動き出した後、エリナはフィオナへの返事を書いた。
フィオナへ 『今どういう状態ですか?』という問いに答える。 怖い。でも、やることは見えている。それが今の状態です。 四つの動きを始める。最終報告の骨格の完成、学院の確認書の催促、宮廷の空気の観察の継続、そしてダリウスへの連絡。 ダリウスに連絡することについて。直接何かをお願いするわけではない。ただ、今の状況を知らせる。それだけでいい。彼が何をするかは、彼が決める。 フィオナ、一つだけ聞いていいですか? 王都に一人でいて、大変ではないですか? ――エリナ―― 書いてから、最後の問いを少しだけ見た。 これまで、フィオナに「大変ではないか?」と聞いたことはなかった。 フィオナが「孤独を感じることもある」と手紙に書いたことがある。あの時、エリナはその言葉を受け取ったが、問い返すことはしなかった。 今日、聞こうと思った。ダリウスへの手紙は、短く書いた。
ダリウス・クロヴェル様 クロヴェル侯爵が、国王陛下に正式に上奏されたと聞きました。 あなたに何かをお願いするわけではありません。ただ、状況をお知らせしたかった。 あなたが今、どういう立場におられるか、想像しています。難しい場所にいると思います。 それでも、以前あなたが動いてくれたことを、私は忘れていません。 ――エリナ・アッシュフォード―― 書いて、封をした。 返事が来るかどうかは、わからない。 でも、知らせることだけはした。その日の夕方、レインへの手紙も書いた。
レインへ 来た。クロヴェル侯爵が、陛下に正式に上奏した。 学院の確認書を、急いでほしい。魔法師団長の副署がまだなら、師匠の署名だけでも先に送ってほしい。 最終報告の骨格を今週中に完成させる。そちらから骨格への追加や修正があれば、今すぐほしい。 それから。『覚えている』という手紙を受け取ってから、六日が経った。あの手紙のことを、毎日少し考えている。残り六週間になった。 今は、最後の山を越えることに集中する。でも、越えた後のことを、少しだけ考えている。 ――エリナ――翌朝、三通の返事が同じ日に届いた。
フィオナから。レインから。そして、ダリウスから。 フィオナから先に開けた。エリナへ
『大変ではないですか?』と聞いてくれた。 正直に言う、大変です。 孤独もある。宮廷は、こちらをよく知らない人間ばかりで、毎回ゼロから信頼を作る必要がある。疲れる。 でも、あなたの手紙が来るたびに、それが少し消える。 だから、大変だけど、大丈夫です。 ダリウスが動いた。何をしたかは、まだ言えない。でも、動いた。それだけ言える。 アルバ殿下も、今夜動くと言っている。 エリナ、最後の山だ。越えましょう。 ――フィオナ――レインの手紙を開けた。
エリナへ
師匠の署名入りの確認書を、今日送った。別便で届く。魔法師団長の副署は、明日中に取れる見込みだ。取れたら、すぐに送る。 骨格への追加は一点だけ。第四部の提言に、「魔法師の負担軽減」という視点を加えたい。魔法に頼りきることで、魔法師自身も疲弊している。知識を使う仕組みが整えば、魔法師が本当に必要な場面に集中できる。これは、魔法師側にとってもメリットだという論理だ。 クロヴェル派の『魔法師の職域を守れ』という主張に対して、『魔法師の負担を減らす』という提案で返す。反論の構造を変える。 残り六週間。俺も、今は動くことに集中している。でも、越えた後のことを、少しだけ考えている。お前と同じだと思う。 ――レイン――ダリウスの手紙を最後に開けた。
封蝋は、クロヴェルの家紋だが、今回は少し薄かった。力が入っていないのか、急いでいたのか。エリナ・アッシュフォード殿へ
手紙を受け取った。 父が上奏したことは、知っていた。止められなかった。今回も。 一つだけ言う。 私は、王宮内で、上奏に対して「慎重な審議が必要だ」という声が複数の立場から上がるよう、動いた。具体的な内容は言えない。でも、動いた。 父の上奏が、すんなり通らないようにすることだけを、今回は目標にした。 それだけのことだ。礼は不要だ。 ただ、一つだけ聞く。 あなたは、今、怖いですか? ――ダリウス・クロヴェル――エリナは、ダリウスの最後の一行を読んで、少しだけ止まった。
『あなたは、今、怖いですか?』 ダリウスが、そう聞いた。 なぜ聞いたのか、すぐにはわからなかった。 でも、少し考えて、わかった気がした。 彼も、怖いのかもしれない。 父が動いたことで、自分の立場がさらに難しくなっている。でも、動いた。「慎重な審議が必要だ」という声を作った。 その状態で、エリナに聞いた。 怖いですか? と。 エリナはすぐに返事を書いた。 ダリウス様 動いてくださり、ありがとうございます。礼は不要とのことですが、届けます。 『今、怖いですか?』という問いに答えます。 怖いです。でも、やることは見えています。見えているから、動けます。 あなたも、怖いのではないかと思いました。それでも動いてくださっている。それを、知っています。 ――エリナ・アッシュフォード――夕方、エリナは最終報告の骨格の作業を再開した。
レインの『魔法師の負担軽減』という追加案を、第四部に組み込んだ。 読んでみると、構造が締まった。 魔法を否定するのではなく、魔法師を守るための提案として読める。 クロヴェル派が「魔法師の職域を守れ」と言うなら、「魔法師の負担を減らす方法がある」と返す。 論理の土俵を変える。 これはレインが考えた手だった。 ゴードンに見せると、「見事です」と言った。 「なぜですか?」 「相手の論理の内側から、反論しているからです。外から反論すれば、正面衝突になる。でも、『魔法師のため』という論理の中に入って、違う結論を出している。これは、クロヴェル派が否定しにくい」 「レインが考えました」 「レインさんは、場の設計だけでなく、論理の設計もできる人ですね」 「そうだと思います」夜、エリナは机に向かった。
やることが、まだある。 最終報告の骨格の確認。フィオナへの状況共有。学院の確認書が届いた時のゴードンへの指示。ベルダンへの進捗報告。 でも、今夜はまずレインへの返事を書いた。 レインへ 『魔法師の負担軽減』という追加案、受け取った。第四部に組み込んだ。ゴードンさんが『クロヴェル派が否定しにくい論理だ』と言った。あなたの手だ。 三通の手紙が同じ日に届いた。フィオナから、あなたから、ダリウスから。 ダリウスが動いてくれた。上奏に対して、慎重な審議を求める声を複数の立場から上げるよう動いたと言っていた。そして、『あなたは今、怖いですか?』と聞いてきた。 彼も、怖いのだと思った。それでも動いている。 私は「怖いが、やることは見えている」と答えた。 あなたには、同じことを言う必要がないと思っている。あなたは、すでに知っているから。 残り六週間。最後の山を、越える。 ――エリナ―― 書いて、封をした。 『あなたはすでに知っているから』という一行を、書く前に少し迷った。
でも、本当のことだから書いた。ランプを吹き消す前に、エリナは今日届いた三通の手紙を引き出しに入れた。
フィオナが『大変だけど、大丈夫です』と書いた。 レインが『越えた後のことを、少しだけ考えている』と書いた。 ダリウスが『あなたは今、怖いですか』と聞いた。 三人が、三つの方向から、同じ嵐の中にいる。 ランプを吹き消した。 暗くなった部屋で、エリナは少しだけ目を開けていた。 最後の山が来た。 でも、一人で登るのではない。 それが、今夜一番確かなことだった。 エリナ・アッシュフォード、八歳。 残り六週間。 最後の山を、越える。フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」 エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」
翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。 どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」 エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」 それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。 目が覚めた時、空はすでに明るかった。 珍しいことだった。 いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。 しばらく、布団の中でそのままいた。 これも珍しいことだった。 起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。 でも今朝は、少しだけそのままいた。 窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。 市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。 帰ってきた、と思った。 昨日も思った。でも、今朝も思った。 ここが、自分の場所だ。 台所に行くと、セレーナが先にいた。 「おはよう」「おはようございます」「よく眠れた?」「はい。遅くまで眠っていました」「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」「そうかもしれません」 薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。 冬の朝の空は、澄んでいた。 「お母さん」「うん」「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」「何?」「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」 セレーナが少しだけ手を止めた。 「それって、どういうことになるの」「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」「そうなるかもしれません」「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 エリナは少しだけ考えた。 「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」「この前も同じことを言ったわね」「同じこ
翌朝、エリナは早く起きた。 今日、ルシェムに帰る。 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。 全部、ある。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。 「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」「聞きますか?」「聞く。でも、今は聞かない」「なぜですか?」「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」「どんな顔をしていますか?」 ゴードンが静かに言った。 「昨日フィオナが見たかった顔」 出発前に、フィオナと二人になった。 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。 「フィオナ、これからどうするんですか?」「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」「そうですね」「でも、今日は違う話をしたい」「どんな話ですか?」「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」「ルシェムに?」「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」「来てください、必ず」「いつ行けるかはわからない。でも、行く」「待っています」 フィオナが少しだけ笑った。 「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」「言いました」「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」「そうかもしれません」「いい変化だと思う」 フィオナが手を差し出した。 エリナはその手を両手で握った。
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。 アルバ殿下が廊下で待っていた。 「よくやりました、エリナ殿」「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」「王都のデータは、効きましたね」 殿下が少し笑った。「右側の列が、ざわついた」「見えていました」「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 「殿下、商会の代表についてお願いがあります」「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」「ありがとうございます」「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。 師匠がエリナに言った。 「一つだけ言っておく」「はい」「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」「ぜひ」「クロヴェルへの返答だ」 師匠が静かに言った。「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。 「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」「届きましたか?」「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」 師匠が一歩退いた。 「俺はこれで失礼する。よくやった」「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」「礼
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。 眠れると思っていなかったが、眠れた。 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。 ルナが持たせてくれた葉を使った。 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。 王都の夜明け前。 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。 今日、謁見の間に立つ。 もう一度、確認した。 怖い。でも、届けたい。 それだけでいい。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく静かだった。 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。 「緊張してる」「フィオナが?」「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」「なぜですか?」「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。 「フィオナ」「何?」「今日、謁見の間に入れますか?」「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」「そうでしたか」「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」「どんな顔をしていると思いますか?」「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。 手紙が、ある。 フィオナが言った。 「今日の目標を、一つだけ確







